「葛飾・柴又です」

 その地名を聞いた瞬間、祢津(ねづ)(くに)子の脳裏に、こんな思念が浮かんできた。私も〝あの人〟が愛した町で暮らしてみたい、と。

 都子は、青春期には映画「男はつらいよ」の世界に引き込まれていた。もっと正確に言えば、渥美清の大ファンだった。

 渥美清──言わずと知れた、国民栄誉賞を受賞した名優だ。「拝啓天皇陛下様」「あゝ声なき友」「八墓村」などの映画に主演。とりわけ、車寅次郎役を演じた「男はつらいよ」によって国民的俳優へと昇華していった。

 この50作も続いた映画では、渥美清が「(わたくし)、生まれも育ちも葛飾・柴又です」というセリフを包含した主題歌で美声を披露する(第49作は八代亜紀・第50作は桑田佳祐=渥美清はエンディングロール)。加えて、映画の本編では、車寅次郎がマドンナに「東京は葛飾・柴又よ」と、郷愁の念を込めて故郷の名を告げるシーンが数多ある。

 人は誰も、生まれ故郷から離れることができても、無関係にはなれない。

 都子の故郷は北海道室蘭市。〝鉄の町〟の「工場夜景」と、三方を太平洋などの海に囲まれた壮大な「自然景観」が共存する町で生まれ育った。18歳で上京。短期大学を卒業後、都内で就職した。29歳で和男と結婚し、東京都目黒区で暮らし始めた。

《私たちは、主人の親の代から数えると60年くらい下目黒に住んでいました。祢津の両親と同居していましたが、義母が他界し、義父も亡くなり、築60年の家を建て替えようと思っていたのです》(都子)

 頃を同じくして、建築会社の営業マンが自宅のインターフォンを押した。

「3階の建物を建て、1階・2階をアパートにしませんか。今、流行っているんですよ、そのような資産運用が......」

 祢津夫妻は熟考を重ねた。この場所では、最寄り駅から10分ほどバスに揺られなければならない......。しかも、バス停から徒歩7、8分も歩かねばならない......。部屋の借り手は少ないのではないか......。

 そんななか、「賢い家の建て方」をテーマの主軸に据えたセミナー開催のチラシが郵便受けに舞い込だ。祢津夫妻は知識を得るためにその講演を聴講した。すると、演者が終盤に「障がい者が入居するグループホーム」(以下=グループホーム)の話題を展開させた。都子の胸に、こんな想いが去来した。どうせ家を建て替えるのならばグループホームを併設させてみたいな、と。

《私は社会福祉法人の評議員を務めており、その法人が運営するB型作業所でボランティアもしていましたので、障害を持った方々への福祉に関心がありました。ですから、グループホームが不足している状況も知っていたのです》(都子)

 祢津夫妻は、我が家をグループホームに建て替える方向に舵を切った。建築基準法に抵触することは何もなかった。あとは、念のために近隣の家々にグループホームを建てる了承を得ておこうと考えた。自分たちで40年、親の代から数えて60年の付き合いだ。どの家々も快くゴーサインを出して背中を押してくれるに違いない......。

「けれども」だった。了承どころか反対、いや猛反対され、反対運動が大きなうねりとなって祢津夫妻の前に立ち現れた。

《ご近所とはとても良好な関係を築いていました。たとえば、旅行に行けば、留守を頼んだり、お土産を買ってきたりと、親しく付き合っていたのです。当初、隣接する家の方だけにグループホーム建築の話をしていたのですが、なぜかかなり距離のあるマンションの住人や、全く知らない人たちが会場に入り切れないほど集い、反対集会を開いたのです。そのような状況が巻き起こるとは夢にも思っていませんでしたね》(都子)

<「障がい者」といっても、重度の障害を抱えた人が入居するわけではない。きちんと就労でき、健常者と同じような生活ができる。少しのサポートが必要な人たちの生活の場である。日中は管理者もいるし、夜間帯は世話人もいる。>──といった説明を重ねたものの、聞き入れてもらえなかった。返ってきたのは「自分たちが住む土地の価値が下がる」「小学校・中学校が近くにあるのに〝なにか〟があったらどうするんだ」......といった反論だった。

 祢津夫妻に、〝ここ〟にこだわらなくてもいいのではいか、という想いが芽生えてきた。と同時に、〝どこか〟に行こう、という考えが頭をもたげてきた。グループホームが建ったせいで自宅の価値が下がる、という印象を抱いている。〝なにか〟が起こればホームの人の仕業ではないか、と疑念を持つ。そのような負の評が色濃い環境に身を置かせるのは入居者に対して申し訳ない......。もういい、〝ここ〟ではない〝どこか〟にグループホームを建てればいい......。

 不動産会社の社長自らが、一生懸命になって都内各所で土地を探し始めた。それほど日を置かず、「最寄り駅からほど近く、敷地面積が最適」という好条件の場所をいくつか見付けてきてくれた。都子は、それらの候補地のなかにあった「葛飾区柴又」という町名に強く惹かれた。

《私は「寅さん」が好きだから「お住まいはどちらですか?」と訊かれたときに、「葛飾・柴又です」と答えられるのが何よりも〝好条件〟だと思いました。もちろん、最寄り駅からのアクセスに恵まれていたし、敷地の広さもちょうどよかった》(都子)

 懸念していた周辺住民の反対運動は起こらなかった。それどころか反対もされなかった。都子は柴又という町に受け容れられたような気がした。この場所であれば、入居者が周囲に見守られながら生活できるに違いない......。

 もちろん、柴又には鮮やかに揺れる巨大な工場夜景もなければ、大海を擁する大自然もない。それでも、激変する時代を生き抜いた町工場が点在し、滔々と東京湾に注ぎ込む江戸川が流れる。さらに言えば、山の手ではとうに蒸発してしまった感がある人情がこの下町には残存していた。

 2019年3月、レインボーズアパートメント柴又(当時=ザ・スカイコート柴又)が産声をあげた。人情に包まれての船出だった。

《「賢い家の建て方」のセミナーの演者だった建築会社の社長、必死に土地を探し回ってくれた不動産会社の社長。このおふたりに出会えたからこそグループホームを建てることができました。今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

 夫も私も、ホームに入居する方々が「楽しく、自分らしく生きられる」というのが大事だと思っています。やはり、障害を持つ方が一般社会に出て行くと困難な場面にも出くわすことがあるはずです。そのためにも、このホームが仲良くくつろげる〝家〟になってくれれば嬉しいですね。利用者さんが安心して安全にハッピーな気持ちで暮らすには、やはりスタッフが気持ちよく働ける環境でないといけません》(都子)

 都子は、人から現住所を訊かれると、もちろんこう答える。「葛飾・柴又です」と。大好きな〝あの人〟の言葉に「グループホームを当たり前のように受け容れてくれた町」で暮らす誇りを添えて──。

                                              (文中敬称略)

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